なんてつメモ

どうってことない日々のあれこれ

ルル・ワン 睡蓮の教室 新潮社

睡蓮の教室 (新潮クレスト・ブックス)

睡蓮の教室 (新潮クレスト・ブックス)

とても興味深く読めた。小説としてというよりも、文化革命時代に一体市井の人たちはどういう思いで暮らしていたのかを知るには参考になる一冊かもしれない。それも多感な中学生の目線での話であるので、ほんとに見たまま、感じたままを書いたのだろうと思う。そこには、尊敬されるべき第3階級は、文字通り泥の中を這いつくばっての生活をしており、極貧にあえいでいるが、尊敬されるどころか、いじめの対象になっている。厳然たる階級社会は徹底的で、一体何のための社会主義文化大革命なのかしらと、その理想と現実の格差に驚かされる。それが学校という狭い世界にも持ち込まれているけれど、教師もそれをいさめるどころか、むしろ、差別意識を隠さないところが徹底している。次々と目まぐるしく変わる糾弾される対象者は、学校に混乱を来たす。これで、よく革命後の中国が持ち直せたなぁーと思うぐらい、理不尽なことが次々と起こるのだ。そんな混乱期を過ごした少女達の物語なので面白くないはずはない。

小説の主人公である第1階級出身の蓮は、母親と一緒に労働改造収容所に送り込まれ、そこ様々な知識階級の第一人者とも言えるべきらしい人たちに勉強の場を作ってもらい、思索を深めていく。ここらへんの描写はとても素敵で好きだ。だけど、収容所って土日は休みなので、自宅へ帰ることが出来ることを本書で初めて知ったよ。何だか緩くないですか?でも、中学生の目線だからか、ここは知識を深める楽園っぽい印象を与えるけど、それはきっと蓮だけの世界だと思われる。蓮は無邪気というか無知というか質問を大人たちへ与え、それに対して大人たちが青くなったり、失望する描写が出てくるけれど、本人が気づかないだけで実は収容者一の愛すべき問題児だったと思われる。
どういう理由だかわからないが、収容所での生活から開放され、また元の生活に戻るわけですが、そうすると思索を深めたはずの蓮が途端に鼻持ちならない女の子になっちゃうわけですよ。なんて現金な子だろうか、と呆気に取られるんだけど、ま、収容所の中は閉ざされた世界だけにかえって何にも邪魔されるわけでないので、思索に没頭できたのかもしれないが。そこで、第3階級出身の張金という同級生とクラスメートになり、彼女を何とかしてクラスの皆に認めされるようにしてやりたいと奮闘が始まる。だけど、その想いがどうも読み手の私には伝わってこない。彼女に勉強を教え、知識の世界を広げさせようとしても、実際は張金にはそれを社会で活かせる場すら用意されていない、それにクラスメートにいろんな場で嘲笑されても、蓮はそこでは救いの手を差し伸べるということは一切ないし、同じ階級の女の子が遊びに来れば、彼女達を遊んでしまうのだから、この矛盾した言動には面食らってしまう。張金が本当に不憫なんだよなぁ。そこいらへんの思いやりが欠けていると思うのは、大人になった著者がその時代を振り返っても、張金へのお詫びの一言でも記述してあれば、子供だったからねで納得できるんだけど、一切ないんだよ。国民性なのかしら?文化の違いなのかしら?それとも著者の人間性なのかしら?
そして、この小説の最後の後味の悪さときたら!結局は蓮は張金を振り回してしまっただけじゃないのか、と思わざるをえない。ちょっとやそっとのことでは、階級の壁を越えられないのだ。張金の妹は、第3階級でありながら、美貌ゆえに両親だけではなく周りからちやほやされるし、本人も美貌を武器にして貧困から抜け出そうと強かに考えている(中学生だけど!)蓮の周囲の人たちは、とりあえずみんな強烈な印象を与えるのだけど、蓮は最後まで何を考えているのか、わからなかった。

著者が、文化大革命に対して見極めきれてないというか、著者自身の中で整理できてない部分があって、とりあえず、持っているものを吐き出してしまえって想いのままに書き上げたのかなと思う。今もって、誰も総括できない痛烈な体験なのだろう。