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どうってことない日々のあれこれ

橋本治「三島由紀夫」とはなにものだったのか 新潮文庫

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

この作品を完成させた後、三島は自決したわけだけど、もし、そうじゃなかったら、これはさほど評価されなかったのじゃないかなぁと思う。何と言うか、書きながら、自分の死に方をどうするべきか考えながら書いていっているような気がするのは、彼があんな最期を遂げたからか。

清彰の滅びの美学にとって単に小道具みたいに扱われた聡子に最後の最後に、「そんな人は存じませんな」と言わせるって、それって今まで読んできた私の立場はどうなるの?全てを否定させるわけですよ。うまくしてやられたって気分だよ。

「春の雪」で美しく自分が滅びることを夢見る清顕に対して、聡子はそれを承知のうえで不成就の恋に乗っかったのかも。そうして、予定調和の世界を抜けることで、お互い様なのかなぁーと。自分のことしか眼中になかった彼も彼女にとっては路傍の石と同じ扱いになるのかも。彼女の心情はこの中では語られることはほとんどなかったけれど、「天人五衰」の中での言葉が全てを集約されているのだろう。
奔馬」では、清顕の夢に取り付かれてしまった本多が中年になって登場。清顕の生まれ変わりは体を鍛えぬいた崇高な理念を持った少年で、何,これって三島の理想像じゃんとか思ったわけだけど、本多は彼を生かせなければと思ったが、却ってそれが仇になって、命を自ら絶つ。こういうふうに死にたかったわけだわね。実際、そうしたけども。
暁の寺」では、再度の生まれ変わりジン・ジャンを発見。本多、今度は敢えて積極的に手を出そうとはしないけれど、なんか爺さんくさくなってきて、覗き見したりなんかしてますよ。つか、汚れてあって欲しいような、そうではないような、なんだかややこしい感情のせめぎあいを繰り返しているの。でも、この部は、精神世界に飛んじゃっている。一番混沌してますけど、書いている人も相当色んなせめぎあいがあったのかもしれない。
天人五衰」では、自分が選ばれた人間だと考えている安永透が登場。これって、自分をモデルにしているのかしら、と思わせる。そして、本多は彼の考えを見抜き、それを全否定させる為に彼を養子にする企みを企てる。もう、本多の迷走ぶりに拍車がかかって見逃せなかったよ。自分を甚振る透に対してもほくそえむ本多にはドン引き。でも、透の破滅の過程はそのまま清彰をトレースしたみたいに思えるし、自虐的に進んでいく様はもはや考えることを放棄しているのか、今まで自分の思考を全否定して、もう何が何でも死ぬことを欲し、そのための正当性を後付けした印象があり、それを嘲笑うかのような聡子のセリフが来るのがたまりません。清顕や本多が浮かされた夢をそこで木っ端微塵にしてしまうのだ。
それにしても、ここに出てくる人達はどれもこれも三島の分身に他ならないのだろうなぁ。