なんてつメモ

どうってことない日々のあれこれ

野坂昭如 文壇 文藝春秋

文壇

文壇

 
文壇 (文春文庫)

文壇 (文春文庫)

最初はやたらと連用止め連発の文体にいささか閉口しつつも、慣れてくるとそれがリズムとなって乗れてくるのが不思議。一時期の中島らももこんなふわふわした調子だったような気がするけれど。

それはともかく、著者がテレビ畑からの転身を図ってから、三島由紀夫が市ヶ谷で自決を図るまでの間を綴っているのだが、登場する作家が錚々たるメンバーなのね。このメンツがぐだぐだ自分の行く末に思いを馳せたりするなんて光景を想像するだけで小鼻もふくらむってもの。

直木賞受賞者のインタビューを見て、小説も書いていないのに(!)飲んで荒れる作家志望の成年の描写があるけれど、それに負けずと劣らず著者もいろんなところでもんどり打っている。同時期の仲間を手厳しく批評しつつも認めたりという状況はそれなりの自負を持って書いているこそ、その心中は複雑だろう。なんか心理的に追い詰められているのが、文体とともに読み手に迫ってくる。でも、作家を編集者に引き合わせたり、作家仲間に「作家」として紹介したりというような、何だろう、仲間として迎え入れるっていう儀式というかコネクションってのが必要だったんだなぁーと。書ければいいってものじゃないのも大変です。

丸谷才一が三島批判をしているから、なかなか賞に選ばれずに弱音を吐いたり、遠藤周作が「傾向と対策本があれば買うのに」とか「俺達の代表作は何だろう」と仲間内で話しているのは、現在の彼らの評価を知っているからこそ、微笑ましくもあるのだが、その内にあるものは複雑なプライドと卑屈さとない交ぜになっている自分との戦いでもあるわけで。そして、虚実ないまぜにして作家像を自ら作り上げて、自己嫌悪に陥ってみたり、心が落ち着く暇がない。

著者は直木賞の選考作品に残った段階で、テレビの仕事を一切入れなくなったりするあたりは文壇の封建的な体質というか選民意識の高さが垣間見えて興味深い。それは今もそんなに変わってないような気がする。で、受賞したらしたで、五木寛之は1人受賞で自分は2人受賞の片割れだと拗ねてみたり。何て言うのか、作家の怨念が宿っているのが文壇なんじゃないかとつくづく思った。みな鬱屈を抱えているから、素直に世間で認められている作家をやたらと落としたりするんじゃないの?ねぇー。この苦しみもお前らも味わえーみたいな(笑)

ラストの三島の自決を知って、丸谷才一が小説を一気に書き上げるって下りが上手い。

ただのアル中親父じゃなかったんだねー(爆)